教えのやさしい解説

大白法 504号
 
無明即法性(むみょうそくほっしょう)
 「無明即法性」とは、「無明」という迷いの生命も、「法性」という悟りの生命も、仏の知見からすれば別々のものではなく、一体不二(いったいふに)であることをいいます。
 煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)、生死即涅槃(しょうじそくねはん)と同義で、法華経の功徳を表わす用語として使われます。
 「無明」は、道理に迷う愚かな心をいいます。三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)の中の一つで、中道実相(ちゅうどうじっそう)の悟りを妨(さまた)げる根本の煩悩であり、円教の等覚(とうかく)の菩薩でも断破(だんぱ)が不可能な煩悩とされています。
 「法性」は、法の性、すなわち一切諸法の本然に具(そな)えている真実不変の性分のことで、真如・実相・仏性ともいいます。
 「無明」は、爾前経においては断ずべき煩悩とされますが、天台大師が『摩訶止観(まかしかん)』で、
 「無明癡惑(ちわく)も本(もと)是れ法性なり、癡迷を似ての故に法性変じて無明と作(な)る」
と説いているように、「無明」も「法性」も、ともに理の上では衆生の一念に本来一体として具わる三千不思議の生命相なのです。
 また、このような意義を日蓮大聖人は『当体義抄』で、
 「法性の妙理に染浄(せんじょう)の二法有り。染法は薫(くん)じて迷ひと成り、浄法は薫じて悟りと成る。悟りは即ち仏界なり、迷ひは即ち衆生なり。此の迷悟の二法、二なりと雖(いえど)も然(しか)も法性真如の一理なり(中略)一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇へば迷ひと成り、善縁に遇へば悟りと成る。悟りは即ち法性なり、迷ひは即ち無明なり」(御書 六九二)
と御教示のように、九界である「無明」と仏界である「法性」の実体は、それぞれの本体がどこか別の所に存在しているわけではなく、悪縁に遇えば迷いの無明が顕れ、善縁に遇えば悟りの法性が顕れるという、一体不二の妙用(みょうゆう)を説かれています。
 『治病大小権実違目(ちびょうだいしょうごんじついもく)』に、
 「法華宗の心は一念三千、性悪・性善は妙覚の位に猶備はれり。元品(がんぽん)の法性は梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)等と顕はれ、元品の無明は第六天の魔王と顕はれたり」(御書 一二三七)
と示されているように、生命に冥伏(みょうぶく)する「元品の無明」は、御本尊への不信・疑惑が第六天の魔王の用(はたら)きとなって、人生における様々な迷い、苦しみとなって顕れます。しかしまた、善縁に遇えば、「元品の無明」は「元品の法性」と転じ、それは諸天善神の用きとなって顕れます。
 この「無明」を「法性」に転ずることのできる善縁こそ、大聖人が顕された本門の本尊です。
 『御義口伝(おんぎくでん)』に、
 「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(御書 一七六四)
とあるように、「元品の無明」を断破する利剣は、微塵の疑いも挟(はさ)まない御本尊への強盛な信心と唱題、そして折伏の実践しかありません。